延命寺の歴史について


 当寺は、天台宗に属し、承和年間(834~848)に天台宗の第三祖慈覚大師円仁上人が山陽道を巡化せられた時、自ら阿弥陀如来像を刻み安置して御建立になった寺で山号は昔時の庄号「三野北条庄」より寺号は旧村名「延命寺村」より採ったと伝えております。

 

 往古は延暦寺の別院と称した巨刹で、貞和元年(1345)の銘がある本堂西北隅の板碑(上部に梵字が刻まれており、左に貞和元年、右に酉年仏らしいらしい文字がかすかに見える)からみても信仰をあつめていたことが窺えます。

 然るに天正六年(1579)織田方による御着城攻めの兵火によって諸堂、古記録悉く焼失し、明暦年間(1655~1658)に至るまで寺運微々として振わず、衰運極に達したるも幸いにして明暦年間に長尊法印、元禄年間(1688~1704)には長純法印、享保年間(1716~1736)には恵超法印等と高徳輩出し、寺門興隆に努め法燈を護持されました。

 

 宝暦の初めに至り増位山隨願寺恵雄法印の弟子恵倫法印が法燈を継承するに及びその高徳を慕い信徒雲集し、寺運大いに上がり宝暦五年(1755)には観音堂(老朽化のため昭和十七年に建替え現在は毘沙門堂)、薬師堂(平成十年建替え)を建立、同八年(1758)には遂に阿弥陀如来を御本尊に本堂をご再建されました。

 

 明治十八年八月九日、明治天皇山陽道御巡幸の際、当山に玉駕を停めさせ給いし故、御着御小休所として史跡に指定されましたが、戦後指定を解除されました。

 また、当寺は故堀恵慶三千院門跡がかつては住職をされたことがあり、その高弟である故山田恵諦天台座主が若き日に副住職を務められました。 なお、西隣大歳神社の別当寺として社領六石のうち三石を収納したとも伝えております。

 

※天台宗についてもっと詳しくお知りになりたい方はこちらをご覧ください。